一あるいはいかにして少年は難しい顔をするようになったか一
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マルレーネ・デュマス / ブロークン・ホワイト
評価:
マルレーネ・デュマス,東京都現代美術館,丸亀市猪熊弦一郎現代美術館
淡交社
¥ 2,600
(2007-04)
in 東京都現代美術館。清澄白河って案外いいところ。

* * *

「絵画の担う役割は、いつの時代も同じ。観ているあいだ、自分の名前を忘れさせること」

久しぶりに美術館へ行ってきました。マルレーネ・デュマスさんという、南アフリカ生まれ、アムステルダム在住の女性アーティストの企画展。写真家・荒木経惟の作品をもとに描いた新作『ブロークン・ホワイト』を始め、初期のポートレイト・シリーズで代表作の『女』など、約250点の作品が展示されています。

エロスとタナトスを捉えた彼女の作風は、なんていうかわりと気持ち悪い部類に入ると思うんですけど、色使いの繊細さや想像力の独特さが本当に素晴らしくて、観ていてとても刺激されるところがあります。肖像画に描かれたひとたちは、ことごとく悪そうな顔をしているのがおもしろい。

特に印象に残っているのは、椅子に座った三本足の少年のやつと、遺伝子のなんたらっていう題のヴィヴィッドな色のやつと、『ガールフレンド』というマリリン・マンソンみたいなやつです。駅看板とかに使われている『邪悪は凡庸である』という、青い顔をした女のひとの絵もクール。

休日の陽気のいい昼下がりは、すこし足をのばして美術館へ行ってみるのも悪くないですよ。
| 美術 | 22:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
ミハイル・シュミアキン
評価:
Michel Chemiakin
Mosaic Pr
¥ 39,810
(1986-11-27)
上の画集は約4万円もするみたいですね、学校の図書室にあるようなの。ぼくは廉価版っぽい薄いやつを550円で買いました。ブックオフってけっこう画集が安いんです。

* * *

「運命の様々な選択のなかで、ミハイル・シュミアキンは常にもっとも難しいものを選んできた。だから私は彼が好きだ」と、ラファエル氏はことばを添えている。それはイタリアの至宝R・バッジョがかつてピッチのなかで目くるめく華やかなプレーを生み出したのと同じ意味において、芸術家にとってもっとも重要な資質であるようにぼくは思う。極めて限界に近いそのラインを一瞬フワリと超越するとき、ファンタジィは現世に舞い降りるのだ。

ミハイル・シュミアキンは第二次大戦下の旧ソ連に生まれた。その後ドイツ・ケーニヒスベルクに渡り、ドイツ兵の頭蓋骨やミイラ化したロシア兵の転がる道を歩いて育ったという。シュミアキンの絵画から感じられる混沌とグロテスクは、幼少時に体験した戦禍の凄惨なイメージに由来している。ことに彼が敬愛するレンブラントを題材にした一連のパステル画は、視覚を刺激する鮮烈な色彩使いでありながら、陰惨さと肉感に満ちた異様な作品群だ。強迫観念に苛まれる精神病患者の頭のなかを覗いているようで、正直に言ってしまえばかなり気持ち悪い。

ぼくがとても面白いなと思ったのは、帝政ロシア・サンクトペテルブルグの風俗を描いたシュールレアリスム思想全開の作品群です。クレヨン画のようにいくぶん柔らかなタッチで描かれていて、レンブラントのパステル画にあったような切迫感はさほどなく、画中の人びとの表情も和やかです。しかし使い古されて角化したようなザラザラ感が表面を覆っていて、メルヘンのなかにある暴虐性を漂わせている。「本当は怖いグリム童話」みたいな感じでしょうか。ゆるやかな雰囲気と抽象的な構図が鑑賞者に様々なイメージを想起させてくれます。

ところで、シュミアキンってまだ生きているのでしょうか? 存命なら今年で64歳になられるようですが、検索しても60件くらいしかヒットしなかったので謎です。
| 美術 | 15:49 | comments(0) | trackbacks(2) |
フィリップ・ドゥクフレ
ぼくよりも変人だと巷で噂される友人のN氏に連れられ、ほとんど予習もなしに舞台を観に行ったのですが、これがとてもおもしろかったのでちょっと更新します。演劇のカテゴリをつくるのが億劫なので無理やり「美術」に入れちゃいますけど、そのあたりはどうぞ寛容に(アートっぽいということで…)。

* * *

“本日の公演” Solo / Philippe Decoufle

1992年アルベールビル冬季オリンピック開会式の演出、2006年FIFAワールドカップドイツ大会開会式空間演出を手掛けたフランスを代表する演出・振付家、フィリップ・ドゥクフレの仕掛ける世にも不思議なひとり舞台。映像、影、音、身体がだましあい、視覚と幻覚が交差する奇想天外なダンスパフォーマンス。

「ソロなのにひとりじゃない」というコピーどおり、卓越した空間演出で画面のあちこちに分身があらわれたり、手や足のクローズアップを駆使して第三者的に演じたり、ディレイ効果によってスローモーションになったり残像になったりと、ひとりの人間をあらゆる手法で視覚的に映し出している。しかもドゥクフレさんというのがまたちょっと変なひとで、しなやかでキレのある動きで“カメハメ波”やら“のいる・こいる”みたいな動作(振り付け)をしていて、そのちょっとずれた感がおもしろい。滑稽という感じ。

個人的にはオープニングのロックな音楽にあわせた足のやつと、ディレイ系のパフォーマンス全般が強く印象に残っています。配色なんかにもかなりこだわっているように感じられました。あと音楽担当のひとがひとりでサックス(トロンボーン?)を吹いたりウクレレ(?)を弾いたりヴォイス・パーカッションをしたり渋い声で囁いたり、せわしなく動いててなんかおもしろかった。

映像→Le Petit Bal

上の映像の雰囲気はたしかにジャン=ピエール・ジュネっぽい、というのがわかる気がする。ていうかドゥクフレ若いなこれ。1/23に作品集のDVDが出るそうなので、気になるかたはチェックしてみてはいかが。
| 美術 | 19:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
トゥールーズ=ロートレック
ロートレックはポスターを芸術の域にまで引き上げた美術史においても特筆的な画家である。大衆的であることを恐れず、しかも大衆に屈しない精神と、時代に密着しながら時代にとり込まれないだけのしたたかさを保ち続けることにより、効用性と商業主義というポスターの限界を超越したのだ。彼は卓越したデッサンと斬新な表現によって油彩画も数多く残しているが、彼の芸術活動の真髄はやはりその完璧な構図によるポスター、あるいはリトグラフ(版画)のなかに見られるだろう。

フランスの名家に生まれたロートレックは幼年期に両足を骨折したのがもとで下半身が十分に発育せず、そのため貴族の社交行事である乗馬やダンスに参加できなかった。まわりの気遣いもかえってコンプレックスとして意識下に根付いてしまった結果、彼は上流社会から逃げるようにして自らの居場所をパリの裏通りの酒場に求めた。

酒場の人間たちは(当時まだ差別的な扱いをされていた)身体障害者のロートレックに酒を勧め、友好的に接した。長らく孤独だった彼は何の肩書きも必要としない夜の世界に共感し、そうして彼はモンマルトル界隈を自らのアトリエとして、娼婦や踊り子といったキャバレーの人間たちを描いていった。

ポスターに描かれた女性の多くは戯画的で、実物よりも醜かった。耐えかねて抗議文を送った女性までいるほどだ。しかし彼は深い愛情をもって彼女たちを描いていたし、常に美しいとは限らないが、おそらく一見したよりはるかに真実に近い人間をそこに発見していた。

「醜さの中に美を見ること、それは刺激的だ」

晩年、ロートレックはその退廃的な生活がたたり、アルコール中毒にかかって死んだ。37歳だった。余談ではあるが、ロートレックは生前たった一枚しか売れなかったファン・ゴッホの作品を誰よりも理解し支持していた。
| 美術 | 22:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
ルノワール
ダリのと同じ出版社のルノワール画集が300円で売られていたので、すかさずげっと。ブックオフの美術書棚って意外と掘り出しものがありますね。最近ひそかにマイブームです。

* * *

ルノワールはモネやセザンヌらとともに“印象派”を代表する画家です。“〜派”とか“〜主義”とか堅苦しい用語が多いんですよね、美術って。まあ芸術を語ろうとすると必然的に形式めいた言葉になってしまうんですが…そのことについてルノワールは「近頃人は何でも説明したがる。しかし、もし絵画を説明できたとしたらそれはもはや芸術作品ではない。私が真の芸術にとって一番大切な資質はなんだと思っているか、話そうか? それは説明がつかず、真似のできないということだよ」と語っています。

それはまあひとまずおいといて、俗いう印象派の特徴というのは、光の動きや変化の質感をいかに絵画で表現するかに重きを置いていることです。好んで屋外に出かけて絵を描いていたことから色彩に富んでいて絵全体が明るく、また当時主流だった写実主義などの細かいタッチと異なり、絵画中に明確な線が見られないことも大きな特徴です。ルノワールの絵を観ていると、漠然と、かつてこの絵のような瞬間がたしかにあったんだなあと思います。代表作の『ムーラン・デ・ラ・ギャレット』なんか特にそうですね。ぼかされた筆致がまるで夢の中の情景のように浮かび上がってくる。

それから人物画に関しては、なにかを考えているようなどこか物憂い表情が特徴的です。ある瞬間の変化を強調して表現する、というこれも印象主義的な技法のひとつで、それは裸婦画にもみることができます。官能さよりも人間の美質そのものが際立っている。

そういえば『アメリ』のなかでガラス男さんとアメリはルノワールの絵をもとに恋話の空想をしていましたね。そっぽを向いた女の子のいる絵のやつ…あれはなんの絵だったかな。

「私にとって、絵は楽しく美しいものでなくてはならない。一そう、美しくだ。これ以上我々が生み出さなくても、この世に不愉快なことなどいくらでもあるじゃないか」

んー、言うねえ。
| 美術 | 13:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
サルヴァドール・ダリ
美術関係にもすこし興味が出てきたのでカテゴリを追加してみました。

このブログは適当にやっているようで、実は難解と思われがちな芸術作品をいかに敷居を低く実感のあることばで文章化できるか、という隠れた高邁なテーマに挑みつつ運営されています。

嘘です。適当にやっています。

* * *

ちょいと前に上野の森美術館のダリ回顧展を観に行ってきたのですが、平日にもかかわらずすごい混みようで、こりゃ土日はどんなもんだろうなと驚きました。外国人の方もたくさん来ておられました。

あんまり(というかほとんど)美術は詳しくないんですけど、やっぱりダリの絵は普通じゃないですよね。いちおうこの日のために予習しようと思って、薄い画集を買って背景とか説明を読んだんですけど、まあ案の定よくわかりませんでした。というか描いてる本人も意味なんかないとか言ってますし。それでも、“意味がないことに意味がある”というのがすごいですよね。

有名な『柔らかい時計』とか『焼いたベーコンの自画像』とかぜんぶおもしろい絵ですけど、ぼくは特にダブル・イメージとか見えない系の絵が好きです。ヴォルテールの胸像が見えたときはけっこうびびりました。あとは自画像じゃなくて自分を絵に登場させちゃうやつもいいですよね。

「シュルレアリストと私の唯一の違いは、私こそがシュルレアリストであることだ」

ちなみにシュルレアリスムというのは超現実主義のことで、超現実というのは「現実を超越した非現実」という意味に誤解されがちですが、実際は「ものすごく過剰なまでに現実」というような意味であって、あくまで現実(約束事などに捕らわれた日常世界)に隣接した世界、またはその中に内包された世界で、現実から離れてしまった世界ではなく、夜の夢や見慣れた都市風景、むき出しの物事などの中から不意に感じられる「強度の強い現実」「上位の現実」であるそうです。

と、ウィキペディアには載っていましたが、わかるようでわからない難しさ。
| 美術 | 14:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
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